仮説を立てて、調査は始まりました。
瀬織津姫がこの世におられた頃(廣田神社が、神功皇后摂政元年(西暦201年)創建とありますから、もっともっと昔です)、多くの神々が集まり祭祀をされていました。その事で多くの磐座があるのです。六甲山全体が、廣田神社の社領とありますが、あまりの広さに管理が行き届かないのでしょう、聖徳太子がてこ入れに、新たな寺社仏閣を六甲山の周りに造っています。
法道仙人も関わっているかも知れません。役行者は、瀬織津姫と邂逅し、磐座を守るように言われたのでしょうか、その場所が「廣田明神影向岩」とされています。
それでも、この辺りが荒れてきたのでしょう、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、空海の協力を仰ぎ、3年間九想の滝で修行を積まれ、831年神呪寺の本堂落慶をします。この時の寺領が250町歩とありますから、すごい広さです(現在は境内地の20町歩)。
長い年月に、磐座が忘れられていくのを懸念したのでしょうか、1798年甲山八十八カ所として磐座の上に石仏を祀り、守るようにしています。甲山八十八カ所の創設について、神呪寺に残されている「四国八十八カ所石像施主過去帳」の序文に、「本朝の霊区で弘法大師の遺跡である神呪寺に四国八十八カ所の霊像を模彫造立する事を宿願としている二、三人の信士らの発言が契機だった。」と記され、「諸檀徒の霊名を集め、極楽往生・追福回向供養・現世安静を願う」のだとしているようです。
それから216年の今(2014年)どうなのでしょうか、その間には自動車道路が通り、ハイキングロードが整備され、石仏は道路の側に移されています。岩の上に祀られていた石仏もあると思うのですが、岩はジャマモノとされたのでしょうか。
どれだけの磐座があるのでしょうか?昔の祭祀跡の姿を見ることが出来るのでしょうか?
調査は、始まったばかりです。(2014.01.19)
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