六甲山は武庫山で古くは向津峰とよばれた向津姫がお鎮まりになる神聖なお山です。サラシャンティの隣、六甲八幡神社は創建年代不詳、石清水八幡または宇佐八幡から勧請してきたといわれますが、祭神天照大神は勧請元の祭神ではないので、この場所の元からの祭神と思われます。つまり、六甲八幡神社とは六甲の神=向津姫命と八幡神を併せ祀っていることを示す神社名なのです。六甲八幡神社の境内は現在よりもはるかに広く、元の中心地は現在地の東にあったようで、そこに碑が立っています。そこは瀬織津姫の御陵と目される六甲比命の磐座の真南に当たります。この場所は六甲比命の磐座のほぼ南に位置しており、瀬織津姫の御稜威をダイレクトに受けているところなのです。
ある知り合いの霊能者のお話によれば、男神天照大神が崩御された後、瀬織津姫が天照大神の名代として天照大神のお名前を継承されたようです。天照大神アラミタマの神名がそうですし、大日女・大日霊女と記された祭神名もそのことを反映したものと思われます。阪神間には天照大神荒御魂を祀る廣田神社や、この大日女・大日霊女の名前で祀る神社があります。このことが、天照大神が女神として感得されたり、描かれたりする要因となったわけです。男神天照大神と瀬織津姫は一心同体なのです。
A高畠精二氏の現代語訳ホツマツタエのサイトより抜粋
一部改訂 http://www.hotsuma.gr.jp/
高天原のあるハラミ山(蓬莱山、現・富士山)の西南の山裾野では、東北の豊受大神のもとへ留学されていた男神天照大神がご帰京されて早々、イサナギ・イサナミの両神(ふたかみ)の詔(みことのり)が諸神(もろかみ)に伝えられ、ヤソキネ(豊受神の子)を中心にして、天照大神のお后選びの神議(かみはかり)がおごそかに進められました。全国の有力な国神(くにかみ)の姫の中から、素直で気立て良く、聡明で見目麗(みめうるわ)しい姫達を選び、日の神アマテラスを中心に十二人の姫を月に例えて十二月として東西南北の四方に配しました。その位は上位よりスケ(典侍)、ウチメ(内侍)、オシモ(御下)の三階級としました。今回初めて十二后を立てたそもそものわけは、若仁君(ワカヒト=天照大神)の二代前の祖神(おやがみ)の第六代天神オモタル・カシコネに世嗣子(よつぎこ)が無いばかりに、一時期政(まつり)が途絶えて国の平和が乱れてしまった反省から、この度はイサナギ・イサナミの英断により決まりました。十二后達は、天君(あまぎみ)を真中に据えて太陽とし、東西南北に月を配して三人ずつ代わる代わる君にお仕えして、皆それぞれ機織(はたおり)をして操(みさお)を立てました。
やっと神議(かみはかり)も終わり、人々に政(まつり)ごとが発せられました。最初にイサナギの弟君クラキネの娘が北局(ネのつぼね)に決まり、姉のマス姫モチコさんがスケ后となり、妹のコマス姫ハヤコさんはウチ后に、カダの娘アジ子さんはオシモ后となりました。次に東(キ)のスケ后にはヤソキネの娘オオミヤ姫ミチコさん(活津彦根命の母:滋賀県彦根市の地名由来)が成り、同じくヤソキネの娘タナバタ姫コタエさんはウチ后に、ツクバハヤマの娘ソガ姫は東(キ)のオシモ后です。南(サ)のスケ后は前々から評判のサクラウチの娘、後にサクナダリセオリツ姫と呼ばれることとなるホノコさん、その妹のワカ姫ハナコさんは南(サ)のウチ后に、カスヤの娘イロノエ姫アサコさんがオシモ后です。西(ツ)のスケ后は、カナサキ(住吉神)の娘ハヤアキツ姫アキコさん(神戸市出身。カタカムナにも登場するカナサキの娘。天津彦根命の母)の称名(たたえな)はシオのヤモアイコ(潮の八百会子)、ウチ后はムナカタの娘オリハタ姫オサコさん、オシモ后は同じくムナカタの娘トヨ姫アヤコさん(熊野樟日神の母)と決まりました。
どの姫達もそれぞれにお美しく聡明でしたが、その中でも生まれつき素直でお美しい一人の姫に天照大神はついに心を奪われてしまわれました。本来ならば君たるもの、姫を迎える時は殿にいて殿前(トマエ)でお目通しするのがしきたりとなっていましたが、この時ばかりは自ら階段(キザハシ)を瀧の流れの如くお降りになり、姫の前に立たれて迎え入れたほどです。この姫の名をサクナダリ・セオリツ姫ホノコさんと申します。さくなだりとは、岩を割いて流れ降る清い渓流を意味し、正に名が体を表わした美しい真名(いみな)でした。称名(たたえな)は君との感激的な出会いに因んで天下る日前向津姫(アマサガルヒノマエニムカヒツヒメ)と申し上げ、ムカツ姫の御名は後世までも君との出会いを伝える名として残りました。
君はついに勇気を持ってご自分に忠実になられ、万難を乗り越えてセオリツ姫をご自身の坐す内宮(うちみや)に入れて一緒に暮らす決心を詔(みことのり)して世に触れました。これが、中宮制度の始まりとなりました。
セオリツ姫が中宮に上られた後の南(サ)のスケ后の後任にはカナヤマヒコの娘のウリフ姫ナガコを臨時に起用して備えとしました。カナヤマヒコは古中仙道(こなかせんどう)を拓いた有力者で娘のウリウ姫の名前は、暦の閏月(うるうづき)として臨時を表わす語源となり今日に伝えられています。
日月は巡り、時は移ろい、日の神アマテルの御世は事もなく、神のご威光は国のすみずみにまで照りとおり、人々の暮らしは日のお陰(光)を受けてますます豊かに平和が長く続きました。
ここに居ます時、ムカツ姫がフジオカアナ(藤岡穴山)の忍穂井オシホイ(現・伊勢外宮宮城内、下御井神社しものみい)の縁(みみ)に産屋(うぶや)を造ってご出産になられた皇子をオシホミミと名付け、オシヒトを真名(イミナ)とし全国に触れました。又ご誕生の祝賀に集まった民には神の御心のこもった祝餅が配られて、諸民は日嗣皇子(ひつぎみこ)誕生を心から祝い万歳万歳(ヨロトシ、ヨロトシ)の声がいつまでも続きました。
しかし、この様に一点の曇りもない君(きみ)、臣(とみ)、民(たみ)の平和なお国の歳月にも、満つれば欠けるの喩(たと)えの様に、やがてむら雲の沸き起こる兆しを誰が予知できたでしょうか。
アマテル神の弟ハナキネ(ソサノオ=素戔嗚命)が、何とこともあろうに天君の后の北(ネ)の局に入り浸り、スケ后のモチコさんと妹のハヤコさんの居る大内宮(オウチミヤ)に折々に宿る様になり、ついにハヤコさんと陰(かげ)のみやび(密通)に明け暮れる事となりました。瀬織津姫はソサノオと姉妹の局との関係を薄々感じていたものの、アマテル神のお立場や心中をお察しして、長らくこの事を胸の内に納めておきました。
ある日のことです。中宮瀬織津姫は密かに二人を内宮(うちみや)にお呼びになり、二人共北(ネ)の局を解任して、しばしの暇を言い渡し、ほとぼりが冷めるのを待つことにしました。大内宮(オウチミヤ・東の殿に桜を植えてオウチ宮)に下って激しく嘆き悲しむモチコさんとハヤコさん、ソサノオは義憤と同情から我が事の様に怒り、ついに耐え兼ねて、中宮向津姫への怒りもあらわに血相を変えて剣を鷲掴みに駆け出さんとするのを、なんとか押し止めなだめたのはハヤコさんでした。若く血気盛んなソサノオに向い、ハヤコさんは毅然と、しかし静かに言い放ちました。「功(いさおし)ならば天(あめ)が下(した)」(手柄を立てるなら、天下を取れ)この言葉は、単に中宮瀬織津姫への恨みつらみを飛び越えて、アマテル神の殺害を暗にほのめかす女の執念と嫉妬心が牙をむき出し、君と中宮に襲いかからんとするものでした。
その時、この緊迫したやりとりを何も知らない瀬織津姫の妹のハナコ姫が来合わせたために、皆慌てふためいて一旦は矛を隠してその場を何とか取り繕ったものの、このただならぬ空気はすぐにハナコさんの悟るところとなりました。
ハナコさんもその場は何食わぬ様子で切り抜けたものの、隠しおくにはあまりにも事は重大で時も切迫しており、ついに姉の瀬織津姫に一部始終を告げました。聡明で心優しい瀬織津姫は何とかこの難局を打開し良い方向に解決しようと思いを巡らし、一旦は事を心中に納め置いて時のくるのを待ちました。
ある日のこと、セオリツ姫はアマテル神がヒタカミのタカマガハラ(地上の高天原・現仙台、多賀城市付近)に御幸された後に、モチコさん、ハヤコさんをお呼びになり、心を込めて切々と諭されました。
「二人共既に解っている事ですが、君(天照大神)と汝等姉妹とは冷え切った食事(関係)なのでこのままでは二人の居場所はもうありません。この場は私に任せ、私の言う事を聞いてください。実は今度の一件をツクシ(筑紫)のアカツチ老翁(おじ)に良く頼んでおいたので、ウサ宮(現・宇佐神宮、大分県宇佐市宇佐)に行って、時の来るのをおとなしく待ちなさい。くれぐれも真面目に反省して、罪を償えば私がきっと局(つぼね)に復帰できるよう計らいますから、どうか素直に私の言う通りにしてください。」「又、モチコさんの生んだタナキネ(天穂日命)は、古来より男児は父に附ける習わしなので、私が預かって立派に教育するから心配しないでください。ハヤコさんの生んだ三つ子の三女(タケコ、タキコ、タナコの宗方三女神)は母に附ける習わしなのでお願いします。必ず心静かに待つのですよ。」と、丁寧に諭されて、一旦は不承不承ながらも身に覚えのあること故、やむなくウサ宮へと下ることになりました。
ウサでは、アカツチ老翁が新后(アラキサキ・改心)として、両人と三女をお迎えするための宮を改築して、不自由の無い様に万端整えて心から歓迎しましたが、何といっても宮中の華やかな暮らしとは格段に違い、ここ宇佐は静かで淋しい田舎暮らしのことゆえ、二人に馴染むべくもありません。三女の養育もしないままモチコさん、ハヤコさんの両人は出奔してヒカワを目指して流浪姫(サスラヒメ)となりました。
もともと両人の父上クラキネは、おそれおおくも、ネの国(北陸一帯)とサホコチタル国(山陰地方)を統治する有力な貴族でした。今度の左遷で何が両姉妹を傷つけたか、それは何と言っても瀬織津姫の中宮への大抜擢でした。次に許せない屈辱はモチコさんが瀬織津姫より先に生んだタナヒト(天穂日命)を当然日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)として皇位を継承されるべきなのに棚上げされて、皇位を継ぐ皇子に付けるヒト(仁)の名も外してタナキネに変えられ、ムカツ姫(瀬織津姫)の子にはオシヒトとヒトの字をつけて、我が子の皇位継承の地位を奪われた事でした。
事がこれでおさまらないのがソサノオです。生来が粗野で乱暴なうえ、亡き母への屈折した思いが、モチコさん、ハヤコさんの両局に通うようになった原因となりました。
また決まりかけた縁談が破断したことも重なり、ソサノオは失望と身の置きどころ無き悲痛な日々に、同情を求めてモチコさん、ハヤコさんの局に通い詰めたのが事の発端でした。唯一の理解者であった親しいモチコさん、ハヤコさんは自分の犯した罪が原因で遠流(おんる)となり、今はもう甘える術(すべ)もありません。ソサノオは益々荒れ狂い、年中行事で最も大切な新嘗祭(にいなめさい)用の苗代(なわしろ)に重播(しきまき)して神田をだめにしたり、田に駒を放って暴れさせ、畔道(あぜみち)を壊して稔りを台無しにしたりの悪事の数々を繰り返し、神聖な新嘗祭で君がお召しになる神御衣(かんみは)を織っている斎衣殿(いんはどの)の戸に糞尿を撒くやら悪事は益々エスカレートしてゆきました。織姫達に恐怖心を抱かせぬように殿の戸を閉ざしたところ、ソサノオはついに切れて、屋根を破って斑駒(ぶちこま)を投げ込むという暴挙をしでかしました。あろうことか真下で一心に機織をしていた瀬織津姫の妹ハナコさんの頭上に馬が落下して、驚き動転したハナコさんの手に持つ梭(ひ)が身を突き、不運にも身罷ってしまいました。「ハナコさんが神去りました」と、泣きわめく姫達の悲しみの声を聞きつけて、馳せ参じたアマテル神もついに語気を荒げてソサノオをしかりつけます。
「お前は国を乗っ取ろうとする心汚い奴だ」 「天成る道を教えるこの歌を味わって反省せよ」と言って、歌をお与えになりました。
天(あめ)が下 やわして巡る日月(ひつき)こそ
晴れて明るき 民(たみ)の両親(たら)なり
ハナコ姫を傷つけて死なせた決定的な悪事を最後に、高天(たかま・宮中)では諸神(もろかみ)による神議(かみはかり)が召集され、決議によりソサノオの罪状が言い渡されました。罪科はかつてない厳しいもので、一般には天の巡りの三百六十科が死罪と決まっていますが、ソサノオには、その三倍の千科(チクラ)の死刑が科せられました。この三折死(ミキダガレ)とは三回死ぬほどのむごい刑死をいいます。刑が序々に執行され、髪も抜かれ、爪も剥(は)ぎ取られつつある時です。突然、瀬織津姫の勅使から急な知らせが告げられました。
「ハナコの御霊(みたま)は、ウケモノ(倉稲神・うけみたま)に祈り、死の苦しみから救い上げ蘇り(または、無事神上がり)ました。ソサノオのハナコ殺しの四百科はすでに償われました。ソサノオの性格は生まれつきの遺伝です。情状酌量により減刑し獄舎(ろうや)を出してやれないものでしょうか」
なんと高貴な優しい御心でしょう。健気(けなげ)で一途に生きた姉思いの妹を失った悲しみを乗り越えて、普通なら憎んでも憎み足りない罪人の減刑を真剣に乞う尊い慈悲心こそが、若きアマテル神が自ら階段(キザハシ)を大急ぎで降りて手を取ってお迎えしたセオリツ姫の雅(みやび・愛情)にあったのです。<
大江註:大祓詞に登場する瀬織津姫・速秋津姫・速佐須良比売・息吹戸主の祓戸四神がホツマには全て登場します。
速佐須良比売とはモチコさんとハヤコさんの事だったのです。駒形さん ほつまつたゑ 解読ガイド参照
http://gejirin.com/src/Ha/hayako.html
「早川の瀬に坐す。瀬織津比売と伝ふ神。大海原に持出でなむ。此く持ち出で往なば荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す。速開都比売と伝ふ神。持ち加加(モチコさん)呑みてむ。此く加加呑みては気吹戸に坐す気吹戸主と伝ふ神。根国底国に気吹放ちてむ。此く気吹放ちては根国底国に坐す。速(ハヤコさん)佐須良比売と伝ふ神。持ち(モチコさん)佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひては。今日より始めて罪と伝ふ罪は在らじと。」
B神道と仏教を結ぶ瀬織津姫と聖徳太子
上記の高畠さんの現代語訳で見てきたように、ホツマに記された瀬織津姫は男神天照大神の皇后です。天照大神と十二后の間で誕生された御子は全部で8人の五男三女です。その中の長男がイザナギの親族から入内していたモチコ姫との間に誕生した天穂日命です。皇后となられた瀬織津姫と天照大神の間に後に誕生されたのが天忍穂耳命です。
天穂日命は瀬織津姫の実の子ではありませんが、その育ての親である瀬織津姫の六甲山の御陵の至近距離に、天穂日命の磐座があります。天忍穂耳命の御陵はホツマの記述をもとにして、伊豆・箱根、芦ノ湖の近くの神山ではないかといわれています。天忍穂耳命の依り代となる磐座もきっと六甲比命の磐座の近くにあるものと思われます。雲ヶ岩、仰臥岩あるいは仙人窟がそうなのかもしれません。六甲山周辺には天忍穂耳命を主祭神とする神社がありますが、六甲比命の磐座と関連を持つ位置関係にあります。天忍穂耳命を主祭神とする神戸市北区の小部杉尾神社と伊丹市荒牧の天忍穂耳命を主祭神とする天日神社を結ぶ直線は、六甲比命の磐座を通り、滋賀県の天忍穂耳命を祀る太郎坊宮=阿賀神社までつながります。
瀬織津姫と六甲山、六甲比命大善神社の深い関係については、2011年夏の関連性の特定、そして、2012年春の公表以来、次第に多くの人々に認められつつあります。ムコ、ムカツと呼ばれた六甲山が廣田神社祭神向か津姫と結び付けられるのは、その関連が判明した今となっては、時間の問題だったのかもしれません。
しかし、瀬織津姫の御子神とされる天忍穂耳命(実子)や天穂日命(養子)を祀る六甲山とその周辺の神社、磐座との関係については、ホツマを抜きには何とも説明がつきません。瀬織津姫と廣田神社・阪神間の関係について記されているのは唯一、ヲシテ文書のホツマツタエのみです。六甲山と瀬織津姫の深い御縁について、ホツマを抜きに語ることはできないと思われます。
◎山陰・因幡と阪神間を結ぶ天穂日命
私の故郷である鳥取の因幡は、因幡国造の祖である天穂日命神社の鎮座する鳥取市湖山の高草郡と八上姫の故郷で天照大神を道案内した白兎の伝承が残る八上郡を中心として、ほぼ全域に土師氏の系統の影響が色濃く残っています。現在の、芦屋と有馬温泉を結ぶ芦有道路が、かつて因幡の人たちが阪神間方面へと向かう旧道に沿っているものであることや、因幡から天穂日命を信仰する人たちがこちらの方へ移り住んだという伝承があることを芦屋神社の神職の方からお聞きしています。因幡の人々=土師氏は天穂日命、瀬織津姫を慕って、この地に移住してきたのでしょう。
天穂日命は、出雲の国造を務め上げた後、晩年に六甲山へお越しになり、瀬織津姫の御陵(予定地)を守るために、そのすぐ近くに御自らの御陵を定められたのではないかと思われます。天穂日命は、その場所を強力に守るお力を持ち、またそのお立場にあるという御自覚もあったと考えられます。
◎六甲山周辺の伝説・遺跡
<処女塚古墳>
東灘区と灘区の沿岸に3つの大きな古墳があります。東灘区住吉町の東求女塚古墳、御影の処女塚古墳、灘区岩屋の西求女塚古墳です。ちょうど世代の代替わりの期間を隔てた時期に造営されたかのようですが、これらは等間隔で並んでいます。
後付けと思いますが、一人の美しい菟原乙女と恋敵となった二人の菟原壮士の青年との間の悲しい物語が伝わり、万葉集にも載っています。
神戸市HPより
処女塚(おとめづか)古墳(東灘区)は古墳時代前期に築かれたと思われる前方後方墳で、
1985年(昭和60年)に遺跡公園として整備されています。
東求女塚(ひがしもとめづか)古墳(東灘区)は阪神電鉄の施設工事によって崩されてしまいましたが、処女塚古墳と同じ頃に築かれたと思われる前方後円墳です。
西求女塚(にしもとめづか)古墳(灘区)も早くから公園として整備されていましたが、最近の調査で、古墳時代初期の前方後方墳であることが分かり、慶長の大地震による地滑りや崩れた石室の跡などが確認された他、邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏の皇帝から贈られたといわれている鏡「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」(大江註:実際にはこの鏡は日本国内でしか出土せず。)が7面出土し、話題になりました。
3つの古墳の位置関係は、処女塚を中心に東西それぞれ約2キロメートルの地点に、東西の求女塚があり、それぞれが処女塚の方向を向いている形になります。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/history/genshikodeai/004.html
この3つの古墳は六甲比命の磐座を意識した位置関係にあるといえます。最も築造年代の古い西求女塚古墳と処女塚古墳の中間点が、六甲比命神社の真南に当たります。六甲比命の磐座と東求女塚古墳と西求女塚古墳でほぼ二等辺三角形を形作ります。これらの古墳からは山陰の土器が多く出土しているのが特徴です。また先日、魔鏡としてクローズアップされた三角縁神獣鏡も出土しています。
<白滝姫>
さて、神戸市北区の山田の白滝姫のお話も興味深いものがあります。
ひょうご伝説紀行より
昔、六甲山(ろっこうさん)の北にある山田の里に、左衛門(さえもん)という男が住んでいました。あるとき左衛門は都へ出て、御所の庭仕事にやとわれることになりました。 ある日、庭をはいていると、いつもは中が見えない御殿(ごてん)のすだれが上がっています。そっと近づいてのぞいてみると、そこにはたいそう美しいお姫さまが座っていました。このお姫さまは、右大臣藤原豊成(ふじわらのとよなり)の娘で白滝姫(しらたきひめ)といいました。白滝姫は、そのころ都でいちばん美しいと評判だった中将姫(ちゅうじょうひめ)の妹でした。(大江註:藤原鎌足の玄孫に当たる中将姫は奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる尼僧で藤原氏の犯した過ちの贖罪をされた。)
左衛門は一目見るなり、すっかり白滝姫のことを好きになってしまいました。
「あんなお姫さんが、およめさんになってくれたら、ほんまに幸せやろなあ。」
それ以来左衛門の心は、白滝姫のことでいっぱいになってしまいました。右大臣の娘と左衛門とでは、あまりにも身分がちがいます。けれどもあきらめようと思えば思うほど、白滝姫を思う気持ちは強くなるのでした。
そしてとうとう左衛門は、せつない心を歌によんで姫に送ることにしました。
水無月の 稲葉(いなば)のつゆも こがるるに
雲井を落ちぬ 白滝の糸
しかし、姫からの返事には、こんな歌が書かれていたのです。
雲だにも かからぬ峰(みね)の 白滝を さのみな恋ひそ 山田男よ
雲もかからないほどの高い山のように、身分の高い私です。あきらめなさい。そんな意味でした。けれども左衛門はあきらめきれません。もう一度、歌を送りました。
水無月の 稲葉の末も こがるるに
山田に落ちよ 白滝の水
この歌を知った父の豊成には、左衛門がまことの心で白滝姫を思っていることがわかりました。話を聞いた天皇も、姫を左衛門のおよめさんにするようにすすめました。こうして、左衛門は白滝姫をおよめさんにむかえ、姫といっしょによろこびいさんで山田の里へと帰ってゆきました。京の都から山陽道をたどり、ようやく神戸の平野についてひと休みしていますと、里の人たちがひどい干ばつで困っているようすです。それを聞いた白滝姫が、手に持っていたつえで地面をつつくと、そこからはみるみるうちに清らかな水がわき始めましたので、里の人たちはたいへん喜びました。烏原(からすはら)から急な坂を登り、長坂山をこえて、ふたりはようやく山田の里に着きました。
ちょうど梅雨に入ろうとする季節です。山田の里には、栗(くり)の花がさいていました。それにしても左衛門の家は、白滝姫がこれまでに見たこともないようなあばら屋です。夜になると、屋根のすきまから月の光がもれてくるほどでした。
左衛門は貧しいながらもけんめいに働き、白滝姫との間には男の子も生まれました。しかし白滝姫にとっては、なれない山里の暮らしです。体はしだいに弱り、とうとう病気にかかって、ある年の梅雨のころ、幼い子を残して死んでしまったのでした。
悲しみにうちひしがれた左衛門は、姫を手厚くほうむりました。するとその墓の前から、清らかな泉がわきだし、水面に栗の花が散り落ちたそうです。それから毎年、白滝姫が亡くなったころになると、泉には清水が満ちあふれて、決まって栗の花が散り落ちるのです。
そこで左衛門は姓を栗花落(つゆ)と改め、泉のわきにお堂を建てて姫を祭りました。やがてその泉も、栗花落の井戸と呼ばれるようになりました。今でも左衛門の子孫が、この井戸を祭っています。そして、白滝姫がつえでついて泉をわかせた所は栗花落(つゆ)の森と呼ばれ、神戸の都由乃町(つゆのちょう)で大切に守られています。
セレブ感覚の持ち主であった(?)白滝姫もある意味、モチコさんハヤコさんの運命と似ているものがあり、何らかの贖罪を果たしたといえるかもしれません。
この伝承地の位置を確認すると、神戸市北区山田の白滝姫がお嫁入りした左衛門の実家と泉のある場所は何と六甲比命神社の真西です。そして、錫杖をついたら水が湧き出たという神戸市兵庫区都由乃の地点を結ぶとちゃんと二等辺三角形が出来上がります。そして、住居跡の北区山田の泉が出るお堂には如意輪観音と弁財天が祀られています。兵庫区の都由乃には(弁財天=)市杵嶋姫命と豊受大神が祀られる祠があります。やはりなにか神様のご加護があったように思えます。
◎瀬織津姫と聖徳太子の深いご縁
仏法僧の「三宝を敬え」と仏教を推進した聖徳太子は、神道を無視ないし軽視していた、そのため神道派の物部氏と対立することになったと見なされがちですが、実は神職、僧侶、儒者、政治家と一般の人々に向けられた全85条の「十七条五憲法」には「神・儒・仏の三法を敬え」と記していることや「敬神の詔」に示されるように、日本の神を大切にするお考えをお持ちであったのです。
すると神道派の物部氏と崇仏派の蘇我氏・聖徳太子という対立構図が崩れ去ります。そもそも物部氏の神道は、神社やその独特の祝詞から判断して、饒速日尊とその系統の神と、石上神宮の剣の御魂を中心に祀っており、伊勢祭神への信仰とは縁が薄いようです。逆に皇統の流れである聖徳太子は伊勢祭神との結びつきが強いこと、仏教本尊に伊勢祭神を習合して、伊勢祭神を守られたといえることなどから、実際は神道の内実を巡る対立ではなかったのでしょうか。
ウィキペディアには>1935年に八尾市渋川町にある渋川天神社操車場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の忍冬唐草紋の瓦が出土している。この遺構は物部氏の居住跡である渋川廃寺址とされることから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。とあります。
聖徳太子が神道を基本としていたことが、後世、藤原鎌足・不比等一派によって歪められ、日本書紀にもその最も重要な点が書き換えられてしまいました。聖徳太子は、すでにその当時、何者かによって歪められ、その存在が否定されつつあった伊勢祭神、中でも瀬織津姫を守ってこられたといえるでしょう。国常立命と伊勢祭神は、聖徳太子をそのミッションとして仏教興隆を通じて、深刻な宗教対立が起こらないように神仏習合という方向性を打ち出されたのではないかと推測しています。
さらに仏教導入には、多くの衆生が神上がりできず、行き来の道(輪廻転生)を見失っていた状況下で、仏教による供養、改心による成仏=神上がりという特別の手段をとっていく方法も必要となっていた、という積極的な意義もあると思います。
さて、瀬織津姫と聖徳太子の深いご縁、という仮説を実証することが必要となってきました。大日如来は天照大神の本地であることは有名です。すると不動明王はこの大日如来の御働きをされる瀬織津姫のエネルギーを表していることになります。毘沙門天が天照大神、吉祥天(弁財天)が瀬織津姫、天忍穂耳命が善膩師童子という仏教的なお姿で祀られることになったこと、同じく西方浄土の阿弥陀三尊も天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命をそれぞれ阿弥陀如来・聖観音・勢至菩薩として仏教的に祀ったこと、瀬織津姫を単独で祀るときは如意輪観音(救世観音)や三十三観音とされたことも実証する必要があります。
聖徳太子が四天王・吉祥天を祀る信貴山朝護孫子寺・四天王寺・法隆寺を創建した当初より本来仏教寺院では、神道の神と仏教の本尊を共に同じ境内で祀る方式がとられています。鎮守神が寺院境内に祀られているのもその証拠です。四天王寺の西門には大鳥居があり、伊勢遥拝石・熊野権現遥拝石も境内にあります。守屋社ではかつての政敵、物部守屋を神として祀り、今も物部守屋の子孫の方々が管理を担っています。
聖徳太子が物部守屋の息子、真福(まさち)と共に創建した愛知県犬山市の真福寺(本尊は本堂の真下から湧き出る泉で水体薬師といわれる)は境内に神社と寺院が対等に立ち並んでいます。
信貴山縁起で有名な朝護孫子寺は入り口に多聞天(毘沙門天)の額を掲げる大鳥居が立ち、各堂塔の前には必ずと言ってよいほど鳥居があります。神道と仏教の様式が融合しています。聖徳太子が日本の神々を見捨てて、仏教本尊のみを信仰した、とは考えられません。聖徳太子は十七条五憲法にあるように、神道を根本の幹として仏教と儒教の枝葉と果実を実らせようとされたのです。
聖徳太子が毘沙門天を感得した場所に創建した朝護孫子寺と信貴山奥の院(ここに毘沙門天が出現されました)はいずれも毘沙門天・吉祥天・善膩師童子を本尊としています。法隆寺も創建当初は四天王寺式伽藍配置であったことは有名です。おそらく四天王寺式伽藍と同じ若草伽藍の東側には、神社が同じ規模で併設されていたのでしょうが、放火によって、伽藍様式と位置を変えられ、神社の祭神は別の場所へ移されたものと推測します。今も法隆寺の鎮守社として、龍田神社が法隆寺の西に鎮座しています。この神社の摂社として廣田神社が鎮座しています。瀬織津姫が祀られているのです。
救世観音は如意輪観音と同じであるとみなす四天王寺は、金堂の本尊を救世観音としています。四天王と吉祥天も境内に祀っています。四天王寺には聖徳太子創建の7つの鎮守社があり、今もそのうち3社は合祀されているものの、ちゃんと残っています。その中の一つが今宮戎神社です。ここは毎年、十日えびすで賑わっているところです。今宮戎とは、実は兵庫県西宮市の西宮神社を勧請した神社であり、今宮戎の北方200メートルほどの至近距離に廣田神社が鎮座しています。兵庫では廣田・西宮神社ともに祭神の変更・追加がなされましたが、四天王寺近くのこの2つのお社はおそらく勧請元の原型をより忠実に残しているように思えます。
ホツマに基づけば、兵庫の廣田・浜南宮(現西宮神社)のいずれかには稚日女(ワカヒメ)が祀られているはずですが、兵庫県の両社には現在その神名は伝わっていません。稚日女はホツマにはエヒスという別名やヒルコの別名で呼ばれていたことが記されていますが、現在漢字の蛭子(ひるこ)が無理矢理「えびす」と読まれ、いつも笑顔の笑みす(恵比寿)の事代主神と習合させられ、その存在が消されたようです。兵庫の廣田神社は、平安時代の延喜式神名帳には1座、つまり一柱の神を祀る、と記されていたことからわかるように、当初は向津姫だけを祀っていたのですが、中世以降、住吉大神・八幡大神・武御名方大神・高皇産霊神を加えた五社を祀る神社となっています。大阪の廣田神社は本殿に向津姫一柱を祀っており、今宮戎では、今もなおちゃんと稚日女命の神名で祀っていることから、勧請先の大阪の方が古式を保っているのです。
兵庫の廣田神社の摂社、浜南宮が現在の西宮神社ですが、中世より商人たちの信仰が広まって大きくなりました。兵庫でも当初は、廣田神社がメインで浜南宮はその摂社だったわけです。するとこの四天王寺七宮の今宮戎も、セットで創建されたはずの廣田神社の方がメインだったはずです。廣田神社の創建年代や創建の人物は不詳となっていますが、これは本末転倒でしょう。大阪の廣田神社(および摂社の今宮戎)は聖徳太子が四天王寺と共に創建したものに違いありません。
また四天王寺の山号を荒陵山(あらはかやま)といいますが、近くに山はありません。しかし、夏至の日の入り方向に六甲山頂がピタリと位置しており、六甲山には天照大神の荒御魂の御陵があります。四天王寺の創建時に六甲山の御影石を切り出しています。その際に、聖徳太子は東灘区御影の綱敷天満宮に倉稲魂神を祀ったと伝わり、神社には聖徳太子御所持の笏と駒角が現存しています。
荒陵山とは六甲山の事ではないでしょうか。
聖徳太子はほぼ六甲山を囲むようにその周囲に複数の寺院を創建しています。中山寺を筆頭に、宝塚市の塩尾寺、平林寺、金龍寺、神戸市北区道場(聖徳太子命名の地名といわれる)の光明寺。同じく道場の鏑射(かぶらい)寺と、>聖徳太子が3歳の時病気になり、瀧に打たれて治癒した
http://ekansai.web.fc2.com/hytafuku.html
という伝説のある太福寺を結んだ延長上に六甲比命の磐座が位置し、さらにその先にほぼこの場所、サラシャンティが位置しています。有馬温泉の極楽寺は六甲比命の磐座のほぼ真北に位置します。
西宮市名塩の木元寺には、「日本三躰ノ一 木ノ元地蔵尊」と刻まれた碑がありますが、ここは>紀伊の木ノ本、近江の木之本地蔵尊とともに、聖徳太子が鎮護国家のため一本で三体の地蔵尊を刻み三か所に納めた日本三体地蔵尊の一つ
http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane/61009562.html
と伝わっているそうです。和歌山の木ノ本は日前宮の神鏡(天照大神と瀬織津姫の御神体)が最初に祀られたところです。滋賀の木之元地蔵は、天武朝の創建とされますが、この西宮の木元寺では聖徳太子創建と伝わっています。驚くべきことに、滋賀県の木之元地蔵と西宮の木元寺を結んだ延長上に六甲比命の磐座が位置するのです。つまり聖徳太子は三つの木ノ元地蔵で、日前宮と六甲比命の磐座の関係を示しているのです。
神戸市北区にはワカヒト様(=ホツマに登場する天照大神の別名)を祀る若一王子権現を鎮守とする福寺を創建されています。(ただし神社創建は後世とする説も有ります。)東灘では岡本の宝積寺、水神を祀る灘区の敏馬神社の神宮寺であった龍泉寺がそれぞれ聖徳太子創建の伝承を持ちます。
四天王寺創建の際、京都に用材を求めた折に、念持仏の如意輪観音がのお告げによって寺院を創建しましたが、それが小野妹子の子孫、池坊とも関わる六角堂(頂法寺)です。それを導かれたのは現在も境内に祀られる唐崎明神です。
http://www.ikenobo.jp/event/2010/newsandtopics/20100726_karasaki.html
聖徳太子がこの地に六角堂を建立しようと材木を探しておられた時に、一人の老翁が東よりやってきました。老翁曰く、「私は地主の神である。この地の側にある禿杉という毎朝紫雲たなびく大木を使い、堂をこの地に建立すれば、 私が後々まで守ってやろう。」と言い終わると、明神天子菩薩となり光明を輝かせながら東の方角へ消えていったと いいます。太子はその教えに従い、その杉を伐り、六角堂を建立した後、自ら明神天子菩薩の御神体を作り、堂の東方に一社を設けて、 鎮守守護神 唐崎大明神として崇め奉りました。
現在は下賀茂神社境内で祀られる瀬織津姫を祭神とする井上社も唐崎明神と呼ばれていました。そして、滋賀県大津市と高島市にも同名の神社がありますが、ちょうど六角堂の唐崎明神社も正式な祭礼の日は同じ7月28日で、祓えの行事と深く結びついています。高島の唐崎神社と井上社は祭神が瀬織津姫(・祓戸神)です。このことから聖徳太子を導かれたのは瀬織津姫ではないかと推測できるのです。実は高島の唐崎神社、元は出町柳駅近くにあった井上社(唐崎神社)、六角堂は一直線に並びます。そのほぼ延長上に高槻市の三島鴨神社があり、なんと境内摂社に唐崎神社があるのです。
◎神仏習合を体現する太子像
聖徳太子生誕地の明日香村の橘寺と大阪府太子町の御陵(叡福寺)と兵庫県太子町の斑鳩寺(いかるがでら)は一直線で並びます。同じく、法隆寺若草伽藍跡と、信貴山奥の院と、大阪の四天王寺、兵庫県太子町の斑鳩寺も一直線で並びます。斑鳩寺には境内に稗田神社(現在は御旅所)があり、神仏分離令の後、稗田神社は移転しますが、摂社の太神社に天照大神が祀られています。太子堂には聖徳太子御自身の本物の長い髪を施した太子16歳像がありますが、その御姿は神職の衣装の上に袈裟を重ねたもので、しかもその衣装は必ず親王皇家より賜ってきた伝統があります。現在のその衣装は、高松宮が昭和37年2月22日の聖徳太子の命日に寄贈されたものだそうです。右手に神道の象徴である笏を持ち、左手には仏教の法具、柄香炉(えごうろ)を持ち、その足元には天照大神の象徴である神鏡が安置してあります。まさに神仏習合を推進する強固な意志を体現した神々しい御姿です。この太子像を本尊とする太子堂の、向かって右側にはなんと善光寺の阿弥陀如来の複製が祀られているのです。
◎聖徳太子の継承者たちの活躍
さて聖徳太子が622年に薨去され、その直後、法道仙人がインドより渡来して、主に兵庫県南東部、つまり六甲山を中心として多くの寺院を創建します。そのうちの一つが神戸市北区唐櫃の吉祥院多聞寺ですが、法道仙人は六甲比命の磐座・雲ヶ岩・心経岩をその奥の院としました。吉祥院多聞寺の前立本尊は毘沙門天で秘仏本尊は毘沙門天・吉祥天・善膩師童子です。
乙巳の変(大化改新)で藤原鎌足一派は、聖徳太子の思想=国常立命の橘の繁る常世国の理念をさらに発展させた神仏儒の道を推進する勢力の一掃を、表面上は完了させたかのようでした。その水面下では主に修験者・仏教高僧の人々が聖徳太子の教えを守ろうとする活動を継承していきました。法道仙人の遺業を継いで役行者が、聖徳太子の未完の事業を引き継ぐ活動をされます。六甲山で瀬織津姫と出会った役行者は、後に天武天皇とともに天河弁財天を祀ります。
斉明天皇2年(658年)兵庫県太子町斑鳩寺のすぐ隣に徳道上人が生誕されます。徳道上人は閻魔大王の命によって観音霊場西国三十三か所を創始された方です。志半ばでこの事業は途絶えますが、その270年後に花山法皇が大成されます。
聖徳太子の時代の200年後、京都の六角堂の如意輪観音に帰依して仏道に入った丹後の与謝野町香河出身の小萩さん=真名井御前は、淳和天皇の御后として入内しますが、すぐにまた出家され、おそらく瀬織津姫に導かれて、『元亨釈書』の記述に基づけば浜南宮(西宮神社)、廣田神社、甲山を経て六甲山頂へ向い、甲山の山麓に、如意輪観音を本尊とする武庫山(六甲山)神呪寺を空海と共に創建しました。
これが聖徳太子生誕地・天武天皇御陵・役行者生誕地・空海生誕地が一直線で並び、空海生誕地と日前宮・高野山奥の院・天河弁財天が東西一直線で並ぶ理由です。まさに神が全て御計画された通りなのです。人間業ではありません。
それから約200年後、今度は花山法皇が熊野権現に導かれ、全国各地の瀬織津姫にかかわる重要な場所を花山院領とされます。廣田神社と花山法皇の子孫である神祇伯の深い関係もこうして築かれました。静岡県御前崎にある桜が池は瀬織津姫が敏達天皇の御世584年にご出現されましたが、ここも花山院の領地となりました。
桜ヶ池は瀬織津姫と聖徳太子を結ぶ大切なところです。584年、瀬織津姫がご出現されたその直後、桜ヶ池の真西に四天王寺(593年)、真北に善光寺が創建されました。
同じ593年に広島の厳島神社が創建されますが、神殿は北西を向いています。北西の方角に高貴な存在を意識する考え方は古くからあったようです。四天王寺の北西に六甲山が位置します。四天王寺創建なって、聖徳太子が念仏三昧に入られた時、はるか六甲の山肌に阿弥陀三尊が出現されたことから、そこが御影と呼ばれるようになったそうです。
善光寺の北西に戸隠神社と九頭竜神社が位置します。また善光寺の真北には善光寺奥の院と呼ばれる神社、駒形嶽駒弓神社(こまがたけこまゆみ)神社が鎮座します。菊池展明氏はこの神社祭神について、「早池峰大神つまり瀬織津姫神は「早池峰山駒形大神」でもあることを指摘し、さらに善光寺にはお寺としては珍しく「盂蘭盆六月祓」という名前の祓えの行事があることにも注目し、「善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり瀬織津姫神がいます。」と結論付けています。
花山法皇が皇位をわずか2年で離脱させられた後、花山法皇を仏道に導いて、ともに西国三十三所を復興されたのが仏眼上人ですが、出会ったのは何と聖徳太子の御廟を守る叡福寺でした。仏眼上人はこの叡福寺の僧侶であり、熊野権現の化身ともいわれた不思議な方です。この三十三か所は、地震の活断層のあるところに位置しているものが多い、という話が古くから一部の僧侶の間で伝わっているようです。(この話は神戸市北区道場の太福寺住職のお話と、成瀬正透著『神がわたる謎の道』より)
それから約150年後、今度は熊本県玉名市出身で『扶桑略記』を著したことでも有名な皇円阿闍梨が、亡くなる際に龍身となって桜ヶ池に入定されます。六甲比命の磐座と空海生誕地である善通寺の産湯井戸と皇円阿闍梨生誕地は一直線で並びます。皇円阿闍梨が桜ヶ池に入定された30年後、皇円阿闍梨の龍体が善光寺上空に現れ、境内の阿闍梨池に毎年数日間鎮まるようになったそうです。
善光寺にはどのような秘密が隠されているのでしょう。
善光寺の北西にモチコさんが最期を遂げた戸隠の洞窟があり、現在九頭竜神社として祀られています。わが子天穂日命を九代目の天神になしえなかった無念の気持ちを持ち続け、本家からのプレッシャーなどから窮地に追いやられてしまったモチコさんは九頭竜となり、全国を流離い、戸隠の洞窟に潜んでいるところをトカクシに切り殺されてしまうのです。肉体は死のうともその無念の気持ちは晴れることなく、後の世にもわだかまっていたわけです。伊勢祭神は、八岐大蛇と化したハヤコさん、九頭竜となったモチコさんを、神上がりできるようにと相当に腐心されたと思われます。神代の時代から人の世の時代になっても、まだ神上がりを果たせなかったハヤコさん、モチコさんを丁重にご供養し、お導きするために、聖徳太子、役行者、空海ほかの高僧・神官にもそのお役目を託したものと思われます。
もっとも古くにハヤコさんが八大龍王として祀られたのは、滋賀県竜王町の雲冠寺と合わせて聖徳太子によって創建された貴船神社と思われます。その後、役行者が天川村の洞川に龍泉寺を創建して八大龍王を祀って御供養し、善の神へとお導きされたものと思われます。
日本仏教の草創期に、物部氏によって廃棄された阿弥陀三尊が不思議な経緯をたどって長野の善光寺で祀られます。善光寺の創建はその北西に位置する戸隠=九頭竜社、モチコさんの供養と密接に関係しているはずで、戸隠修験者は善光寺と戸隠を一体のものとみなして修行していました。長年にわたって九頭竜神社・戸隠神社神官、善光寺僧侶を中心に、モチコさんは手厚くご供養されてきたものと思われます。箱根の芦ノ湖の九頭竜神社においてもモチコさんの無念の思いが現れることがありましたが、万巻上人によって調伏され、次第に人々を守る善神となっていかれたようです。
◎すでに善神のお働きをされているモチコ姫・ハヤコ姫
善光寺本堂中央には守屋柱という四角形の太い柱があり、本尊は戸隠の方向を意識して本堂内の北西に位置する、という特異な構造です。
神社建築では内から外へと柱の形が異なり、円柱は神殿の天の神の領域、八角柱は地(に降り立った)神の領域、四角柱は人の領域の象徴であるかのように使い分けられています。この見方からすれば、善光寺本堂内陣奥の中央に位置する四角柱=守屋柱は特異な存在です。この守屋柱にこそ、無念の思いを残したまま神上がられていない方々の存在を示し、善光寺とは、その方々に神上がって(成仏して)いただくための大規模な供養のための施設であることが示されているのではないでしょうか。
また本堂奥の地下には、真っ暗な洞窟を再現した胎内めぐりの空間がつくられていますが、これはモチコさんが戸隠山の真っ暗闇の洞窟にお一人で籠ってつらい思いをされていたことを疑似体験するためのものではないでしょうか。イサナキの親族の出身で、モチコさんの宮中での立場には、その実家からの重すぎる期待もあったとも思われます。長男タナヒトさんを九代目天神に、とはモチコさん個人の切望ばかりでなく、ご親族からの強い要請でもあり、相当なプレッシャーを抱えておられたものと思います。このあたりの宮中のお后たちの心理状態は、後の平安時代の『源氏物語』に鮮明に描かれたものと大きな差はないような気がします。
このようにモチコさん=九頭竜の供養を目的として善光寺は、日本仏教興隆にとって最も重要な本尊を以って、そのおひざ元の長野に創建されたと考えられるのです。モチコさんと関わるこの場所でも、守屋柱に示されるように、やはり聖徳太子の足跡を確認できます。聖徳太子と善光寺如来とはご縁があり、不思議な話でどこまで信じてよいのかはわかりませんが、聖徳太子がこの阿弥陀如来と往復書簡を交わしており、それが四天王寺に伝わっているそうです。
121世にわたる善光寺の尼僧上人はすべて皇室や五摂家からの出身の方々であることからも、ここが特別な場所であることが示されています。皇円阿闍梨が、瀬織津姫と関わる静岡県御前崎の桜ヶ池で龍となって入定した直後に、善光寺の阿闍梨が池にご出現されたのも瀬織津姫のご意志に基づいてモチコさんを供養することが目的だったと考えられます。日本の神が長い長い年月をかけて、モチコさんハヤコさんを厚く供養し、善の道へと導いてこられたことが判ります。
渡来系の秦氏にせよ、藤原鎌足・不比等とその子孫にせよ、皇室の血統との融合によって、当初の政権簒奪の夢は次第に薄れていって、やがてはその反対に皇室を守り、国を守る役割をするようになっていったように、長年のご供養によってモチコさんハヤコさんの思いも変わって善なる方向へと昇華されたようです。
1954年、今から59年前です。突如として、京都の八瀬の大西さんという方へ、九頭竜のご神霊がかかります。これが九頭竜大社創建のきっかけです。以下は八瀬の九頭竜大社の由緒書きからです。
昭和29年11月24日 ご祭神九頭竜弁財天大神様が開祖大西正治朗の夢枕に立たれ、「汝の身を社にする。無限に人を救う。奇蹟を以て即座に守護を与える。神は人を救って神界に上る。」とのご神託をお授けになり京都八瀬の地に降臨され、九頭竜大社が発祥いたしました。九頭竜弁財天大神様は慈悲の神であり、人生における諸々の災い、厄を取り除き、福徳を授け、幸いにお導き下さいます。発祥当初より九頭竜弁財天大神様の奇蹟の力が発揚され、月参りをなさるなど、熱心にお参りになる方々が後を絶ちません。数多くの方々が大神様よりのお蔭をいただかれる霊験あらたかな社です。
伊勢神宮ともご縁がある九頭竜大社。別の由緒書きによれば、祭神は2柱と記されています。おそらく、モチコさんとハヤコさんが合体した龍神でしょう。
さて、ではなぜ、昭和になって九頭竜神は京都の八瀬の大西さんのところへ降りてこられたのでしょうか。八瀬の北西方面には鞍馬・貴船が位置します。鞍馬寺には毘沙門天・吉祥天・善膩師童子(=天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命)が祀られています。その北西に貴船神社の結の社が位置します。そこは磐長姫が祀られているのですが、実はホツマによれば、磐長姫とはハヤコさんが輪廻転生された方だったのです。そして驚くべきことにこの3地点がピタリと一直線で並びます。つまり大西さんという霊的因縁のある方に八瀬に住んでいただき、そこへ時期が到来したときに九頭竜の神が御かかりになったということです。
その12年後の1966年、昭和41年にはホツマが世に出て神代の真相がいよいよ広まる時代となりました。その2~3年後、京都府大江町の元伊勢内宮に、磐長姫の御神霊のかかった神奈川県藤沢市の渡辺兼子さんとその賛同者によって、岩長姫の社と八俣龍神の社が創建されました。天照皇大神の司命神・皇室神道をご守護することを目的として岩長姫が元伊勢の地に鎮座されたわけです。天皇神道の旗を掲げ、特に教育勅語の普及に努めておられます。このような神々の和合の動きは、機を一にしているわけです。モチコさんハヤコさんは、すでにご改心されて、善神となっていらっしゃいます。
国常立命の常世の教え、伊勢の祭神をはじめ多くの神々の教えや、失敗談をも含めた多くの教訓がたくさん記されたホツマが世に広まることは大変好ましいことですが、日本の神々が憂えておられることが一つある、と思います。
すでに善神となられた神に対して、現代人の善悪二元論に基づく固定的評価とその価値観に相応した、行き過ぎた勧善懲悪の描き方や蔑称表現を使い続けることは、私も含めて、改めるべきではないか、ということです。日本の神々が長年かけて、和す・尽くすの精神で、慎重に築き上げてこられた神々の和の世界を、ホツマの根本精神を十分ふまえないことで、かえって台無しにすることになりかねません。
太古より人々をご守護されてきた神々、自己犠牲の精神で、後の世に貴重な教訓を残された神々は今、和(やわ)すこと、尽くすことの大切さ、そして必要なときには健き心(猛き心)の発揮の重要性を人々にお伝えしようとされています。
日本の歴史時代の最初から見出すことのできる、敵となった相手を赦す(愛す)、(一時的な)悪を抱き参らせて善へと導いていかれた神々とその思想の継承者たちのご尽力、連綿と続く神道の神官・仏教高僧・儒学者・道徳家、思想家・教育者・一部の優れた政治家による並々ならぬ献身的な活動、これが日本人の心の優しさの源ではないでしょうか。
昨年、東京でのオリンピック開催が決定しましたが、その時のPRのキーワードになったのが おもてなしでした。いときょうさんという東京のホツマ研究家からお聞きしました。「この言葉は聖徳太子の 和をもって貴しとなす が言葉の由来ではないか。」と。確かに、おもてなしの心と、相手を尊重し、和していくという考えとはピタリと一致します。和す・尽くすの思想の源は国常立命の常世の国の思想=トの教えと同じであり、それが古代の神々のご尽力によって日本人の心に刻み込まれているがゆえに、ホツマの教えと切り離されてしまっても、今も諸外国から道徳性の高さが評価されているわけです。ギリシャ人の父とアイルランド人の母を持つラフカディオハーン=小泉八雲は、これを「日本人の宗教は日本人の心の中にある」とその本質をズバリと言い当てたのです。
時代とともに、ホツマの教えは仏教の教え、説話文学などに形を変え、また関西ホツマの集いの清藤直樹さんが指摘したように、明治の初めには「教育勅語」となって補われてきたものと思われます。戦後、トの教えが弱まり、日本人が方向性をいよいよ見失う危機の時代に、実に1400年ぶりにホツマが登場しました。我々一般庶民の目には史上初となるはずです。トの教えがふんだんにちりばめられているホツマは、日本の神の教えをすべて削り取った『古事記』、『日本書紀』とは全く次元が異なります。
2012年8月、瀬織津姫のお言葉を頂戴できるハニエルさんを中心として、瀬織津姫の御魂をご供養し、神上がりをお手伝いする神事が行われました。続く2013年秋の戸隠神事もモチコさんハヤコさんの神上がりをお手伝いする大切な行でした。その過程で様々なことが判り、本日のこの報告内容となって結実しました。
長年にわたって人々をご守護されてきた神々、自己犠牲の精神で、後の世に数多くの教訓を残された神々は今、和すこと、尽くすことの重要性を人々にお伝えしようとされています。そのことを私たちは多くの人々に知らせていきましょう! 和をもって貴しとなす。
大江 幸久 |